スピリチュアル



カーラチャクラ   2008/6/8


カーラチャクラ (1)

今年2008年の7月にインドの聖者が湯布院に来られます。
今世界が一番注目している聖者のカレスワールです。

日本来日には今まで、伝えられなかった秘伝を引っさげて来られます。皆さんに完全な形で伝法されます。カーラチャクラ(灌頂伝法)です。

それは、治療法としてみた場合・・・・
今現時点であなたの抱えている問題や病気を解消できる驚くべき治療法の一つなのです。それと未来に起こる事態を未然に防ぐことも出来るのが一番の魅力でしょうか?

チベット密教のカーラチャクラはその1部です。
それは古来のインドの聖者が見つけ出したものであり、やしの葉に書き記されていた、原書を100%完全な形でに伝えてもらえます。
それを、受け取れるのはある種の能力の開花は要求されます。

今から、10年ほど前に前世療法(退行催眠療法)という本を読んだのですが、確信部分は似通っています。
本の内容はこのようなものでした。
それは偶然に発見されたのです。
アメリカの精神科医が患者のトラウマ(心的外傷・簡単に言えば病気)の原因を探そうとして、催眠術をかけました。
患者のトラウマは幼少時代の体験が原因の大半でした。
その精神科医はそうして、治療の目安を探り当てていたようです。
そして、ある患者に今のトラウマの原因になったところに戻ってくださいと患者に言ったら、現世を通り越して、過去生まで遡ったのです。
催眠療法で前世まで、患者は戻ることができたのです。精神科医はそんなところまで、魂が戻れるのに驚きました。
そして、それ以上の驚きは患者が前世に魂が戻り、前世のトラウマの原因を知ることでそのトラウマ(病気)が治るという事実でした。

今は退行催眠療法とは、日本でもいくつかの精神科医が行ってますし、わりと多くの人が信じるかどうかは別にして、知ってる人も多いとおもいます。

この退行催眠療法も催眠にかからない人は適応しないですし、催眠にかかっても過去性まで戻れない場合もあります。

カーラチャクラは、治療家の世話にならずに自分で行えるということ。
現時点の問題の解消だけでなく、将来に起こる問題をも未然に防ぐ事ができるのです。
どうして、そんなことが出来るのか!と問われたら、懺悔滅罪の一つですと言えます。

私達の世界と神の世界。相対の世界。絶対の世界。
この2つの世界には仕組みの違いがあり、神の恩寵があり、これがプログラミングされているからです!

神はどのような世界!「絶対の世界。」
私達と神の世界はどのような違いがあるのでしょうか?
一般的に説かれているのは、私達は相対の世界に住み、神は絶対の世界であると。
では相対と絶対にどのような違いがあるのでしょう。

元々その本質に気付かせる為に神がこの世界をつくったと言われます。
私達がスワミの元で霊性修行をする大きな意味がそこにあります。
言葉に反対語として、大に対しては小、有に対して無があるように相対の世界に対して絶対の世界≪1つの世界≫があるということです。

私達の住む世界は私,貴方,あの人、だれそれと相対する存在があります。
それは時間,空間≪時空≫の存在が生み出す物質世界。俗に現象世界などとも言葉としてあります。それは実は無明(マーヤ)の世界なのです。永久不変のものはないからです。長い年月の間にすべてが崩壊していきます。
あまりにもリアルであるから真実の世界と認識してしまう。それも神の創造のなせる技なのですが!
時空が織り成す私達の世界には未来永劫にわたり、不変のものはありません。

では、・・・・
神の世界は時間、空間の制約などない世界。それはどのような世界でしょう。不変の世界。一如(仏教用語)とは一つであり、私や貴方、だれそれの区別はありません。勿論どの部分が手で、この部分は顔なんて区別もありません。大小の区別もなく、過去、現在、未来の区別ない世界。私達のいる世界からは創造さえ不可能です。
神の絶対の世界に正入するにはどうすればよいのでしょう・・・
スワミは幾つかあるシッディを得る事だと言われます。

私達人間は相対の世界にいます。肉体は物質であり、物質世界(相対世界)の産物です。ですが・・・・神の絶対の世界と同じ存在のものがあります。それは、ソウル(魂)です。真我、アートマ、仏性とも呼ばれています。
ソウルは神の1部であり、同質でもあり、神の分身でもあります。だからソウルはあるプロセスを行うと、過去や未来を行き来するのも不可能ではありません。

カレスワールは奇跡を行う聖者として、今、世界がもっとも注目している聖者です。
「人として、生まれたのなら、私と同じことがみんなも簡単にできる。」と言っています。

仏教の最終目的は成仏です。神(仏)に成ると言う事ですが、≪現実的には?≫
絶対の世界を得る意味です。未来永劫の不変の世界を得る事が本当の不退安心≪シッディ、悟り≫と説かれています。その教えさえ、お釈迦様のお生まれになる2500年前にはもう、インドではベーダと言われる聖典としてありました。真理はずっと変わらないと言う事です。
不変の真理を得ること、永劫の安心はスワミが与えるカーラチャクラ・プロセスなどで間違いなくその手に掴む事が出来るのです。

                                            BY  SHOKAN




悟りのイメージ   2004/6/9


今回は悟りについてですが、控え目に言っても(誇大に言っても)今のところ私自身が悟っているとは言いがたい情況なので、その雰囲気だけでもお伝えできればと思います。
私自身は日々悟りへ向けて精進しているつもりなのですが、一体私の求めているものとは、もとい、悟りとはいかなものなのでしょうか。悟りとは一体何を悟るのでしょう。
例えば、よく知られた般若心経という仏教のお経には、最高無上の悟り(アヌッタラ・サムヤク・サムボーディ)として「実は目や耳、五感に映るすべて、また、意識も心もなにもかも本当ははじめから無いものでした。だから何の憂いも恐れもないんです。」という悟りが出てきます。ヒンズーの伝統では悟りの瞬間にあるものとして「サット・チット・アーナンダ(存在するという感覚、意識があるという感覚、無上のよろこび)」の三つを挙げ、その他の肉体や自己に関する感覚、意識内容は消えるといいます。
まあ、これだけ書けばもう話も終わりという感がありますが、もう少し続けましょう。私達が何かしらスピリチュアルなものに触れ、それを通して何かを学び、前進し、習熟し、成長していきたいと思うとき、一度はその先にあるゴールを意識するはずです。
(意識しなくても済む人はある意味幸せな人と言えます。)

日本には、一応仏教が広まっていますし、悟りはその目標とする所なので、別段修行をしている人でなくとも悟りという言葉は知っていると思います。悟りというものをある種の状態と考えて、それは一体どんなものなのでしょうか。いくつかの宗教や宗派における最高の状態というものを、そのイメージとして見てみたいと思います。もちろん悟りは「不立文字(ふりゅうもんじ、言葉では成り立たない)」、「言語道断(ごんごどうだん、言葉の道が断たれている)」で、言葉による説明を超越したものですから私の説明で話が良く分からなくてもそれは私の説明が悪いのではなく悟りが悪いわけで、本来は言葉で言ってもわからないからイメージを用いるということなのですが・・・。
    今回は、悟りのビジュアルイメージ集だと思ってください。

まず、身近なところで仏教ですが、仏教といっても幾つかのセクト、宗派があり、少しずつ違います。よく知るところで、座禅をする禅宗からですが、禅宗といえば水墨画であり、また、禅宗の人の好きそうな言葉に「無」とか「空」とかがあります。当然悟りのイメージもそれに沿ったもので、例えば「十牛図」と言われる悟りへの道程を示した10個の絵がありますが、十分に悟りに達した所のものは何も描かれていません、白紙(!)です。何もない空白をもって悟りのイメージとしているわけです。
   (中国本家のものはこれが最後の段階ですが日本に伝わった
         十牛図はこれが8番目の絵です。)

次に、対照的なものとして、真言宗や天台宗など密教と呼ばれる仏教では、逆に極彩色を使ったきらびやかな仏様の絵が描かれます。いわゆる曼陀羅ですが、数ある如来、菩薩は幾何学模様に配され、宇宙の真理や働きが一つの絵として描かれます。もちろんこれは観賞用ではなく、そのイメージと自分が一体化するという瞑想の為に使われるもので、曼陀羅そのものが悟りのイメージと言ってもいいと思います。

また、密教はいろいろなイメージを多用しますが、よく知られるものとして「自分の本質アートマは清らかで欠ける所のない満月のようなもの(浄月輪)であり、それ自身となる。」という月輪観(がちりんかん)という瞑想がありますが、これもある種悟りのイメージと言っていいと思います。五相成身観という瞑想法では、さらに満月の中に法具である金剛杵ヴァジラのイメージを描き、自分の本質とします。
  (密教では三昧耶samayaと呼ばれるいろいろなイメージ集があり、
        それを使った瞑想が多くあります。)
その他、浄土宗では「西方の蓮の花が咲き、何の苦しみもなく、光に満ちた極楽浄土に無量の光をたたえた阿弥陀如来がいて、死後そこに生まれ変わる。」という図像があります。正確にはこれは悟りのイメージではありませんが、それに準じるものでしょう。(本来極楽浄土に行くのは死後くつろぐためではなく、そこで心おきなく死ぬまで(?)修行するためです。)

また、キリスト教やイスラム教には悟りというものはありませんので、本来悟りのイメージなどありませんが、中には悟りを目指した宗派もありました。もちろん異端ですが。それらはキリスト教神秘主義とかイスラム神秘主義と呼ばれ、「一点の曇りもない光との合一」や「神との合一」というイメージが出てきます。
また、アラビアやヨーロッパで発達した「アルケミー(錬金術)」という神秘主義では「王と王妃の結婚」と呼ばれる男性性と女性性の合一のイメージ(半身が男で半身が女)や、「一度死んだ後の再生」というイメージが霊的な人間完成に関するものとして出てきます。

そして、インドのヒンズーはある意味スピリチュアリティーや神秘主義の本家ですので以上にあげたようなイメージは大体そろっています。それらは悟りや人間完成のビジュアルなイメージと言えます。それらは「有を越えた無」であるとか、「神や光との合一」などですが一つ大切なポイントがあります。それは「自らの中にそれらを見いだす。」ということです。悟るという言葉の中にある「悟る=何かを気づき知る」というニュアンスに含まれるものは、つまり「自分が真に何者であるかを知る」ということです。「空無」にしても「神」や「光」にしてもそれらを自らの中に見つけるのです。

インドでは仏教にしろヒンズーにしろ「自らの中にこそ目差すものがあり、自分が本来それ自身であることこそが修行のゴールである。」大きな伝統的なテーマ(真理と書くべきでしょう)があります。それへ至るための手法や使うイメージは仏教とヒンズー、各宗派で違ってもその部分での意見は違いません。ヒンズーの権威あるテキストであるベーダの一番大切なテーマは「ブラフマン(神・創造主)はアートマン(個々人の本質)に他ならない。」というものです。
また、お釈迦様は死ぬ時に、「あなたが死んだら私たちは何を頼よりに生きていけばいいのでしょうか。」と弟子に問われ、「自らと法(宇宙の真理)をよりどころにして生きていきなさい。(自灯明・法灯明)」と言い残したと言われます。「人間は、本来一人一人が神にも等しい存在なのにそれを忘れてしまい、さらに肉体という不自由な容れ物に入っていることもあり、本来の素晴らしい状態から遠ざかっている。」というのが悟りに達した側からこちら側を見た風景だと言います。

「彼岸」とは(本来春分や秋分にお墓参りをすることでなく)大きな河を渡り終えて悟った向こう岸のことを指して言うことです。それに比べてこちらは「此岸」です。なんだか泣ける話ですが、泣いてばかりいても仕方ありません。このような人間の状況もこの世界を作った神が私たちの成長と経験の為に用意してくれたトレーニング施設だと思って前向きに生きるほかありません。本当にそう思います。本来の自分を知らないことを無知、無明といい、それを知ることが本当の智慧だとされます。「大きな河の向こう岸」これも悟りのイメージだと言えるかと思います。

そして、スワミは「生きているうちに自分が真に何者であるかを知ること、それが人生で一番大事な仕事である。」と言います。ですが、その内容、つまり、自分が何者であるかを知ったときの感覚や意識についてはほとんど教えてくれません。「それは自分で味わわねば意味がない。」という感じです。「過去の聖者達はそれを素晴らしいと言っている。そしてこの時代には、一定の期間定められた修行すればそこにたどり着ける。」と言います。

今回は、悟りの雰囲気だけでもと思いつらつらと書いてきましたが、実際それで悟りが何か全然わからなくても当然といえば当然ですし、人に何かを聞いて満足するようなものでもないといえばそうです。人は誰もが、それを意識するしないに関わらず、そこに向かっているといいます。いつかはみんなゴールにたどり着くといいます。最後の瞬間に見る「絵」や「風景」とは一体どんなものなのでしょうか。道の途中に於いては誰もがそれをまだ見てません。まだ見たこともない素晴らしいものを求めて旅を続ける、それもありかと思います。
 
                                  
                              Ushi






神様のイメージ   2004/5/17

神と言われてどんな姿を思い描くでしょうか。白いひげを生やし、手に杖を持って白い服を着て、後光を背負いながら出てくるそんな人物でしょうか。到底、神についての話がA4で2,3ページで済むわけもないので今回はそのいろいろなイメージについて書きたいと思います。(いつものように、語り口が宗教別の比較文化論のようになってしまうのは、お許しください。)
 
先ず、神と言えばキリスト教ですが、キリスト教では神自身が聖書で述べているように像禁止ですからイメージと言っても絵で描けるようなものはありません。
勢い、キリストやマリア様の像ばかりになるわけですが、それらは神そのものと言うわけではありません。神は時に、「光」や、全てを見る「目」として描かれますが、まっとうなキリスト教ではこれも禁止です。旧約聖書の中では草薮の中で燃える炎のような形で現れたりもしますがこれも神の姿というわけでもないようです。

では、キリスト教の中では神は抽象的な存在かと言うとそうでもなく、特に神についての記述が多い旧約聖書の中では、世界を6日で創り人間や他の生き物を作り出した創造主として描かれる一方、ユダヤ人に対して怒ったり、他の神を信じてはいけないと言ったり、戦争の味方をして相手をやっつけてくれたりと、目に見える姿が無いだけで、結構人間ぽかったりします。

キリスト教はユダヤ教やイスラム教と兄弟の宗教でどれも旧約聖書を奉じていますので、ユダヤ教、イスラム教でも神のイメージは大体同じかと思います。神は旧約聖書の中でもコーランの中でも戦争反対などとは言いません。(キリストだけは「汝の敵を愛せよ。」と述べ、世界で初めて愛による平和を説いたかのようです。)(ムハンマドが神の言葉を記したコーランの中の神はさらに人間くさく、最後の方は神でなくムハンマド自身が言ってるんじゃないかとささやかれる程です。) しかし、とりもなおさずユダヤ、キリスト、イスラムの教えでは、神は天地を創造し万物を生み出したそのような偉大な方です。

次に仏教ですが、ご存知のように仏教に神はいません。仏や如来、菩薩はいてもキリスト教やイスラム、ユダヤ教のような天地を創造したり人間を作ったような存在ではありません。それに如来や菩薩も一人ではありません。

これはなぜかと言うと、第一に、お釈迦様自身が「この世界を作った神」などというものにYESと言わなかったからです。ご存知のように、同じインドでもヒンズー教には神はいますし神による天地創造の神話もあります。しかし、お釈迦様は賢い方でしたから、「宇宙を造った神はいるのか。」とか「宇宙に果てはあるのか。」とかいう質問には沈黙を持って答えました。(すべてを作った神がいるなら、その神は一体誰が作ったのか、か、宇宙に果てがあるならその向こうはどうなっているのか、とかそういった議論はいくらでも出てきます。)

「そのような質問に答えることはあなたが悟ることとは何の関係も無い。」というのがお釈迦様の態度です。ですから本来は偶像(仏像)も禁止でした。 しかし、時代を下ると仏像もでき、はじめはいなかった如来や菩薩など多くの尊格もできてきました。その中でと神のイメージに近いのは大日如来という仏で、宇宙を成り立たせている原理そのものを神格化したもの(法身)です。ですが、仏教徒達は、なんと言うか、洗練された人たちだったので、大日如来による天地創造神話といったものは作りませんでした。
そして、大日如来は旧約聖書の神のように人間に細かい指示を出したりもせず、「あらゆる存在の根源」などという割と抽象的で物静かな方でした。人のような姿形があっても人格神ではありません。それから日本の神様ですが、一応、根源の神の「天御中主(あめのみなかぬし)」という神様もいますが、国つくり(天地創造?)はイザナギ、イザナミという一組の男女神によって行われます。しかし、自分の他にいかなる神も認めないというような神はいません。すべての神様は結構人間ぽかったりします。
 
ちなみに、中国道教ではすべての存在、創造の根源は「道(タオ)」と呼ばれるエネルギーで人格も内容もありません。虚無です。一応男女神による天地創造の神話はありますが、創造主ではありません。神々はいますが、それらは日本の八百万の神のような人間っぽい感じです。
 
そして、最後にインドのヒンズーの伝統ですが、まず、創造主といえるような神が男だけでシヴァ、ヴィシュヌ、ブラムハと三人います。また、パラシャクティなど女性神も創造主です。前の三人の男性神の生みの親とされます。そして、それぞれ人格神で性格付けもあります。そして、そのような至高神でありながら肉体を持ち地上にいたとされます。そして、人間の呼びかけに応じ今でも人間の前に出てきてくれたりします。いや、するそうです。(インドは不思議な国です。)イメージは、神でありながら偉大な先人、人間の先生といったかんじでしょうか。一回肉体を持って人生(?)を経験しているだけに割と人間に優しい方たちです。
とまあ、私達が知ってそうな宗教の神様のイメージを述べてきました。

現代の日本は一応文明国で、身のまわりのテレビも掃除機も車も科学技術で動いています。決して何かの宗教儀式で動いているわけではありません。テレビをつける前に拍手を打ったり、神に祈る必要は無いようです。今の日本では人が普通に生きていれば神の姿は非常に希薄なもので、冠婚葬祭や何か困ったことでもない限り、思い浮かべることも稀だと思います。私はインドに行くようになって少しカルチャーショックに近い感覚を受けました。それはインドでは本当に神が人間にとって身近な存在だと言うことです。
人々の中に本当に神や信仰が生き生きと息づいていて、人々もそれを身近に感じているかのようです。それは、インドがまだ田舎の国だからといってしまえばそれまでですが、単純にそういう話でもないようです。

例えば、キリスト教やイスラム教では人間は人間、神は神です。人間が成長して神に近づくことも悟りもありませんし、輪廻や生まれ変わりもありません。インドでは仏教にしろ、ヒンズーにしろ、人は悟るべく成長し、神に近い存在になることが教えや宗教 大前提です。そのような意味で、はじめから目線がずっと神に近いといえます。また、インドでは伝統的に、「バガヴァン(仏教用語で世尊。お釈迦様もそう呼ばれた。)」や「アヴァターラ」と呼ばれる神の化身の存在がありますが、それは実際には姿形は人間であり、そのような意味でも人間と神の間の敷居が低いとも考えられます。

例えば、スワミは神と対した時、どのように何を頼み、どうやり取りするか、そして実際に神に会ったときの挨拶の仕方まで教えてくれます(!)。それは良く考えれば、(よく考えなくても)驚くべきことです。(どうも文明生活の中で学校教育など受けてしまうとこのような状況に対する想像力が貧困になるようです。)
日本では、古事記や日本書紀の中の神々が活躍していた時代を「神代の時代」と呼びますが、インドでは現代においてもなお神話の時代が続いているようです。そして、神々も人々の身近にいるようです。
 
自分にとって神とはどんな存在でしょうか。そして、それは身近でしょうか。インドの伝統では、神は自分自身の本質に他なりません。ただそれを忘れているだけだと、という言い方をします。身近でないわけがありません。神を知ることは、すなわち自分自身を知ることでもあるのです。
「神は、本当は寺院や聖地に行かなくても、すぐそばに、自分の中にいる。自分こそ神のいる寺院なのだ。そのことを本当に知らなければならない。」スワミはそういいます。いつか神と会うことを楽しみにしたいと思います。

                                        



「愛という気分」 2004/3/18

今回は愛についてですが、改めて愛などというと少し気恥ずかしいものがあるのはなぜでしょうか。この連載はとりあえずスピリチュアリティについてのものなので、まずはその流れで話を進めましょう。まず愛といえばすぐに思い出されるのはイエス・キリスト様ですが、うちのスワミも言うとおり
「ジーザス(イエス)が愛であり、愛がジーザスである。」
という感じです。本当に愛の人だと思います。
キリスト教は旧約聖書も入れると何前年にも渡る信仰の流れですが、イエス以前にはイエスのような形で愛を説いた人はいませんでしたし、個人的にはイエス以前には世界に愛などなかったかのような気さえします。

欧米特にヨーロッパは二千年に渡りキリスト教の影響を受けて、文化、信条、気分、メンタリティなどを育ててきましたが、多分思うにそれは日本人が仏教から受けた影響以上のものがあると思います。ヨーロッパでは歴史的に教会が大きな権力を持っていたこともありますが、人々の中に常に何か物事をキリスト教的な気分の中で考えようとする癖があるようです。
例えば、ヨーロッパでは経済活動というものが常にキリスト教的信条の中で語られてきた経緯がありますが、(何故かというと、古くからキリスト教的イメージでは商売人というものはベニスの商人のシャイロックのような感じで、ある種否定的にあつかわれてました。)これは社会学の泰斗マックスウエーバーの”経済活動におけるキリスト教精神の分析”、といった近代にまで続く流れとなっています。
(えーと、何の話でしたっけ。)これと比べて、例えば「日本の経済活動の流れに仏教的信条はどう影響を与えてきたか。」と質問を変えた瞬間におかしなことに気がつきます。キリスト教的気分というものがあるのに比べ、仏教にはあまり仏教的気分というものがないのに気がつきます。
「仏教的気分てなに?」という感じでしょうか。

キリスト教は泣けます。どう泣けるかというと、それはセンチメンタリズム(感傷)であり、聖書に一貫して流れるのは「人々の罪を背負い十字架に掛けられたキリストの悲哀と弟子達の自己犠牲の精神であり、それでも愛を説いた聖者の物語」という気分です。前回も述べましたが、自己犠牲や、愛というものはそれだけで人の心に訴えるものがあります。
戦国時代に日本に来たフランシスコ・ザビエルの師匠筋にイグナチウス・ロヨラという聖者がいますが、かのロヨラは「霊操」というキリスト教的修行を考え出しました。
その主な内容は、例えば、「キリストが諸人の罪を背負って、自ら架かる十字架を背負って、ゴルゴダの丘へと歩んでいく様を思い、その時のキリストの気分になる。」というようなイメージトレーニングのような瞑想です。
何だと馬鹿にしたものでもなく、それは本当に効果ある瞑想で、今でもカトリックの修養として行われています。(ロヨラ自身は祈りのとき常に空中に浮いていたといわれる筋金入りの聖者ですし、霊操はどうしたら自らの体験や境涯を人々にももたらすことができるか、と考案されたものなのですから。)
そのような意味で、イエス・キリストは自らの生き方というセンチを通して人々に広く大きな愛を説いた初めての人ではなかったかと思います。もし、皆さんがキリストの姿に涙することができれば、それはキリストの教えを受け取ったことになるかと思います。それがキリスト教的気分ということになります。では泣けなかった人は愛のない人なのでしょうか。(まあ、そうかもしれません。)

ところで、先程あまりないと言った「仏教的気分」についてですが、それについて敢えて言えば、それは「悟り」の気分であり、「空無」の気分であると言えます。
仏教ではいくら観音様やお不動さんが慈悲の心で人々を救ってくれると言っても、究極には「悟り」であり、それは般若心経で言うような「もともと何もありはしない」という空無です。
それは一般の人にはなかなか受け入れられないものであると同時に、ある種受け入れられていて、達観した人や物欲の少ない人を「あの人は悟っている。」などと言いますし、悪くは思いません。キリスト教的気分が人々の生活に根ざしたものなら、仏教的気分は実生活に根ざさない、実生活を越えたところにあるものです。そのような虚無的な精神の中では、泣き笑いや愛やセンチメンタルなどといっても通じにくいところがあります。
愛や感傷といったキリスト教的気分というものが西洋にある一方、東洋には仏教や道教の悟りや虚無といった東洋的気分というものがあります。そして、仏教でも道教でも何故か愛という言葉に少し否定的なところがあって、仏教では愛と言えば渇愛(かつあい、タンハー。焼け付くような欲望)とか愛欲とかそんなニュアンスで語られます。

また、道教のテキスト(荘子)では、老子が死んだとき、一人の親友が来て形ばかりの嘘泣きをしているのを見てある人がそれをとがめると、「老子自身が葬式をしてくれと頼んだのかね?老子は来たところに帰っただけの話で、それも分からず泣きわめいているおまえさん達の方が馬鹿者ではないかね。」という話があるように、人の生き死ににセンチを挟むことすら下らないことだといった所があります。(中国スピリチュアリティの理想といえば仙人ですが、愛を説いたり、感傷に涙している仙人というのあまり思い浮かびません。)

愛を巡っては特にスピリチュアリティにおいては、難しいところがあると思います。それはお釈迦様の言葉に表れていて、「愛着などというものがあるから人間は苦しまなければならない。」という意見です。それはキリストの愛とは違う、キリストの愛はもっと違う愛だ、と言うことはできますが、イエスは自らの苦しみを持って人々に道を示した訳ですから考え方からして釈迦とは違うと思います。
キリストの受けた苦しみ、受難やそれにまつわる涙や感傷なくしてはキリスト教自体がなりたちません。「そして最終的に、ブッダ(釈迦)はヴァイラギア(離欲、無執着)を見いだした。」とスワミも言うように、釈迦の説いた道は無執着の道です。

翻って、スワミは「宇宙には根元的な4つのエネルギー、サティヤ、ダルマ、シャンティ、プレマ(智、法、静寂、愛)があり、そのどれかに繋がることができれば、(他の3つにも繋がることができ、)神に繋がることができる。」と言います。
そのように言えば、大まかに言っても4通りの道があり、キリストはプレマ(愛)を、釈迦はシャンティ(静寂)をもって道を説いたと言うことができるかと思います。
愛を分類して、「あなたの愛は子供のようにわがままな愛だ。」とか「あなたの愛は天使のように純粋な愛だ。」とか言うことはできましょうがそれらを通して成長していくという視点があればいいかとも思います。

スワミは「神は愛そのものだ。」と言いますが、人間だけでなく、生きとし生けるものすべて、そして、山川草木に至るまで愛することができれば、それは神のような愛だといえるのかもしれません。「誰にでも、好きとか嫌いとか、愛はある。そこに親切心が加わることにより、それは神の愛に近づいていく。」とスワミは言います。
小さな子供の好きとか嫌いとかいう気持ちでさえ、いつかそれが成長して大きな神のような愛になると信じたいものです。心に愛はありますでしょうか。愛は気分であり、感情のエネルギーであり、ハートのチャクラのエネルギーです。もし、愛を感じ、また感動し涙するなら、ハートのチャクラが開き、エネルギーが流れ、魂が成長します。スワミはそう言います

                                        



今回は「人助け」です。2004/1/20

しばしば、ある種の宗教やスピリチュアリティの教えには、人助けに触れその重要性を説くものが多くあります。イエスキリストは愛を説き、人々を助け、貧しいものへの施しを説き、時に極端にそれらを強調しました。また、仏教の歴史は、「多くの人々を助ける」という思想が広まっていく過程を見せてくれます。「本当の救いとは悟ることなのだから、余計な事を考えるよりまず自らが悟るための努力をするべきである。」という自利の考えから、「自分が彼岸へ渡る(悟る)より先に他の人を渡してあげる。」という利他への変化、いわゆる小乗仏教から大乗仏教への変遷です。(小乗が人助けを否定しているなどというと怒られますが)また、イスラムというと好戦的なイメージがありますが、イスラム教徒のするべき行いの一つとして喜捨(貧しいものへの施し)があります。儒教の孔子様が説いた五常の徳(人が持つべき五つの人徳)仁・義・礼・知・信の第一は、人を
慈しむ仁愛の心「仁」です。

 そして、別に宗教に限らず、偉人伝や伝記といった本の中には奉仕や人助け、自己犠牲の精神がちりばめられており、美談といえば、それは人助けか利他的精神を意味します。単にスピリチュアルな精神世界の話に限らず、人助けというものはある種、人を引きつけ、感動させ、衝き動かす何かがあるとおもいます。私も、私事で申し訳ありませんが、中学生くらいのときです、ニューヨークのポトマック川に飛行機が落ち、氷の浮かぶ川で一人のおじいさんがつかんだロープを近くの女の子に渡し、自分は川に沈んで行く映像を見ました。私はその場面にひどく心を動かされ、そういう人間に自分もなりたいなどとそのとき思ったものでした。そして、多分そういった気分は誰の中にも生まれえるもので、感動物の映画を見た後の気分のようなものかもしれません。

 スワミの言葉で、「人を助けたいというのは私のエゴだ。」というのがあります。私はそれを聞いたとき少し面白いと思いました。何故かというと、私も若いころに人を助けたいなどと思っていて、知人から「何で人を助けたいの?」ときかれたときに相手が納得するだけの説明ができなかったことがあります。人助けなどに興味がない人には人を助けたいと思っている人などただのお人よしに過ぎないでしょうし、その考えを覆すだけの説明も出来なかった訳です。それから私はそれを趣味の問題と考えるようにしました。リンゴが好きな人とミカンが好きな人が議論してどっちが正しいか決めることはできないでしょうし、たとえ人助けが正義であっても議論してそれが正しいと決めたり、どうこうできるものでもないでしょう。「確かに私はお人よしの馬鹿ものかもしれませんが、悪いですが、それは私の趣味です。私の趣味にけちをつけないでください。」という感じでしょうか。スワミはそれを「私のエゴだ」と言ったのですから、その皮肉っぽい言いかたに面白く思ったのです。それが趣味やエゴの問題だとしても、いい趣味やエゴを持ちたいと個人的には思います。

 そして、話を少しややこしくしているのは、聖者や悟った人の中でも、人助けというものについて温度差があることです。ある聖者は人助けや衆生救済というものを非常に重んじるのにくらべ、ある聖者は非常に冷めているというか興味を示しません。前者の代表がイエスなら、後者の代表はお釈迦様でしょうか。(小乗のひとたちが「私達こそ釈尊の直系だ」というのもあながち違うとも言えません。)
 思うにこれは、人助けの概念が違うということでしょうか。どの聖者も人助けに興味がない訳ではないのですが、ある聖者は具体的に現世的に困っている人を助けたいと思っているのに対し、ある聖者は、本当の人助けとはその人を悟りに導くことだと思っているということなのでしょうか。確かに人は色々な面で、色々なレベルで困っている訳ですから、それぞれの場面に応じた助けが必要になるわけです。「おなかをすかせて泣いている子供に石を与えてどうするのか。」というのはイエスの言葉ですが、今その人が必要とする助けが、本当に必要な助けであるといえば全くそうです。

 仏教では、この世界を「娑婆(しゃば)」と呼びますが、この言葉には一種独特な響きがあり、天界や極楽から離れた憂き世というような感じでしょうか。あまり好いイメージはありません。人間はこの世では肉体もあり疲れもするし、年をとったり節々も痛んだり、色々大変なこともあります。仏や菩薩はそういう人間を哀れんで色々助けてくれますし、現世利益も否定したりしません。人間の究極の目的が修行や悟りであっても、そこに至るまでもなかなか大変なことも多く、また多くの助けが要るということです。そして、助ける側の趣味として、どういう場面でどういう助け方をするかは好き好きといえるかもしれません。空海さんの開いた真言宗に大日経という教典がありますが、その中に、「菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究境となす。(悟りを求める心を因り所とし、大いなる慈悲の心のもとに、人助けをするということが究極の悟りである。)」という有名な三句の法文があります。これは仏教におけるヒューマニズムの極みであるとされます。方便とは仏教用語で人助けを意味しますが、そこには「人々を悟りに導くために色々な助けや導きがある」というニュアンスがあります。
 スワミも「ここは幼稚園ではない。下らない頼みをするのが目的ならよそに行け。」と言いつつ、多くの人々や時に弟子たちの下らない頼みに耳を傾けることもしばしばです。20世紀の前半を南インドに生きた聖者ラマナ・マハリシは弟子から「私は人助けをしたものでしょうか」との質問に答えこう言っています。
「自分も他人もその本質に於いては同じものであり、人を助けるということは実は自分を助けていることに他ならない。それに気付けば、人助けをするかしないかなどということで思い患う必要はない。」

 最後にスワミの人助けについての言葉をいくつか記します。

「この世界には神がいて我々の面倒をみてくれる。だからといって困った人を目の前にして『神よあなたは完璧です。すべてをあなたにお任せします。』と言って何もしないならあなたは馬鹿者だ。目の前に困っている人を見たら助けなさい。そして、神から恩寵がもらえるよう祈りなさい。」

「もしあなたが人助けをしないのなら、スワミはあなたに何もしてあげなかったのと同じことだ。」

「もし、その人が信仰もなく、スピリチュアリティに興味がなくてもそれはいい、OKだ。それならば、その人に人助けを教えなさい。それがその人のスピリチュアリティになる。」

「自らを捧げる精神で、世を救う光となりなさい。」

                                        





「信じることと信仰」

時々思うのですが、今、キリストやお釈迦様が生きていたら、現在自分の遺したものが宗教と呼ばれていることをどう思うのだろうか、などと思います。スワミも以前生徒の一人が、キリスト教とイスラム教の話をしようとしたら「私は宗教は嫌いだからその話はするな」と言ったそうです。有名な聖者が、時として宗教というものに嫌悪を示すことがまま有りますがこれはどういったことでしょうか。私も宗教というものに、思考回路のなかで少し拒否反応を起こす所があるようです。これはどういったことなのか少し自分の思考回路を通して考えてみたいと思います。
1、「宗教」という言葉のイメージが悪い。中世ヨーロッパのキリスト教会のように人々からお金を巻き上げたり、どこぞの教団のように信者を洗脳して悪いことをしたりと、とかく良いイメージが浮かばない。
2、目に見えない世界のことを説明するのをいいことに、うそ八百ならべて私達をだましている。
3、証明もできないことをならべて、それを信じることを強要する。従わないと、それは悪いことだ、とか、罰が当たるとかいって脅す。
4、とかく、宗教の人は押し付けがましい。他の宗教や価値観をすぐに攻撃する。自分だけが正しいと思っている。思い込んでいる。
5、キリストは愛を説いているのに、その神に誓っているアメリカ大統領はすぐに戦争を吹っ掛けるし、イスラムは戦争を肯定している。余りに世界中に、歴史中に宗教戦争が多い。うんざりする...
とまあ、こんな感じのことを私は思っているようです。別に悪口を言う積もりもないのですがそのように聞こえたら申し訳なく思います。いくつか考えて思うのは、どうも「信じ込んでいる」とか「信じこまされている」というところが引っ掛かるようです。信じるとはどんな具合のことでしょうか。宗教には大体神様というものが付きものですが、「あなたは神を信じますか。」ときかれて、「信じている」と答えて、さらに、「その根拠は何ですか。」ときかれたら何と答えるのでしょうか。
「私は昔体の調子が悪くて、神様に祈ったら直った。だから信じる。」
「私は、神に対して祈っているときにその存在を感じます。だから信じます。」
それらは、根拠となるのでしょうか。
「信じる」とか「何かの存在を信じている」とはどんな情況なのでしょうか。ちょっと考えてみたいと思います。その度合いで考えてみます。
レベル1、全く疑いのないレベルで確信している。例えば、目の前のコップがそこにあること、また、自分が自分であること。この世界が目の前にあることなど。
レベル2、直接確かめたことはないが、間接的な証拠から信じていること。例えば、原子という小さな粒から物質はできているらしく、直接見たことはないが電子顕微鏡の写真があるので信じている。また、アメリカという国に行ったことはないが、人の話や写真からあることは間違いないと思っていること。
レベル3、証拠もなく根拠も弱いが、信じたいので信じていること。例えば宇宙人やUFO、天国や地獄を信じていること。
と、これらは自分に対する根拠の強さの度合いで3から1の順に確信度も自然に強まります。レベル1では「信じる」という言葉を使うこと自体不自然ですし、レベル2でも「あなたはアメリカという国があることを信じますか。」ときけば少しおかしいと思われます。レベル3ではじめて「あなたは神を信じますか。」という質問が不自然でなくなります。
そう考えると信じるか信じないかという問題は大体レベル3ぐらいのところで問題にされるわけで、さもなければ初めから問題になりません。人間が「神はいるのか」、「奇跡はあるのか」というレベルで揺れるのは考えれば自然といえます。証拠があるような、ないようなという感じなのですから。
もちろん、中には神をレベル2やもしかしたらレベル1で確信している人もいるかもしれませんし、信じるとは常に個人的な問題といえばそういうものです。(本当に、もし世の中に他人に対して説得するということがなかったら、自分だけで信じるということはもっと楽な事だと思います。)
仏教には「信」という言葉があり、これは盲目的に何かを信じるのではなく、自分の体験を通して分かったことについて理解し、信じていくことだとされます。スワミもエネルギーやリアリティー(世界の現実、真実)、自分が真に何者であるか、ということなどへの理解を強調します。「それが分からなければ意味がない。」と言います。
何かが宗教になるか、それとも、真理の教えの実践になるかは、ある意味自分のあり方、
それとの向かい合い方ともいえます。何かを闇雲に信じるのか、それとも、実践を通して何かをつかんでいくかの違いともいえます。
始めに何か偉大な教えを説いた聖者や悟りを得た人は、自分が悟った真実・リアリティーをただ述べただけなのだとおもいます。後にそれを受け継いだ弟子たちは、師の教えがすべて理解できなくても、それを受け取ります。そして、そこに形骸化した何かが残っていって、宗教と呼ばれるものになっていっても、それが全く役立たずとはおもいたくありませんし、そこには創始者や偉大な先人たちの遺したエネルギーがあると思います。
「聖者たちは生前の修行でためたエネルギーをすべて来生に持っていくのではなく、多くはこの世界の助けとなるべく残していってくれる。インドには何千年にもわたるそのエネルギーの集積があり、今日も私達を助けてくれる。」とスワミは言います。
それに、「やみくもに信じる」というのもあながち意味のないことではないと思います。
今、自分に理解できなくても「とりあえず信じてみる」ということで人は心を開き、エネルギーのチャンネルを開くことができます。スワミによれば「何も信じていないなら何年木の下で瞑想しても無駄だ。」ということですし、「逆に信仰がないなら、マントラを唱えて、唱えて、唱えて・・・、そうすれば信仰が育つ。」とも言います。
「師、マスターの言うことがすべて理解できないとしてもそれは弟子の宿命だ。それは、仕方ないともいえる。それが本当に理解できるのは自分がマスターになったときだ。それまではそれを信じて辛抱強く行を続けなければならない。信じること、辛抱強くあること、これは本当に大切だ。」とスワミは述べています。
神は確かに目に見えるものではないので、私達はいつも(レベル3で)揺れ動くことになります。目で見たとしても、「あれは本物だろうか?」などと思う始末です。「疑い深いのは人間の特徴だ。」とスワミも言います。いつか私達は(レベル1の)確たるものとして神や世界のリアリティーを知ることになるのでしょうか。スワミはもちろんYesと答えます。
最後にこの世界の造物主である母なる神、マザーについてのスワミの言葉です。
「マザーは言った、『私は宗教を持たない。』と。」
けだし名言というには不遜でしょうか。

                    
カレスワールJP マネージャー



                                        




スピリチュアルの水辺

スピリチュアリティとは、日本語に直せば「精神性」「霊性」などと訳されますが、あるひとにとっては、それはキリスト教や仏教などの宗教などへの信仰であり、ある人にとっては気功やヨガのようなものであり、またある人にとっては、道徳的、倫理的、モラルや人助けの問題であり、またある人にはヒーリングや自然療法、食養などであり、またある人には占いや占星術、恋愛における相性判断などであり、またある人には、UFO、心霊写真であるかもしれません。(そのようなもの全てをすべてひっくるめたもの全体をうまく一言で言う言葉が見つからないので、スピリチュアリティという言葉を使いましたが、始め題を『霊性修行とは何か』としようかと思いましたが『修行は嫌いだ』という人もいるでしょうから、「スピリチュアリティとは何か」という題にしました。

自分にとってのスピリチュアリティとは何でしょうか。『あなたは何を目差しているのですか』と聞かれたとき、なんと答えるでしょうか。人間は自分の価値観や好みについては、あまりよそ見をしませんし勢い他の考え方や価値観、人の趣味についてケチをつけたくなります。クリスチャンとイスラム教徒がケンカするならまだしも、同じクリスチャンやイスラム教徒の中でも派で争うわけですから。確かに、お寺で修行するお坊さんとUFO研究科の価値観・世界観は大きく隔たるところがあるとは思います。しかし、それらの人々の中にある、ある種の共通点を強いて探せば、それは『目に見えない何かに対する信仰、もしくは実践。人間やこの世界は単に物質的なものではなく、物質以上の何か、精神的な何かがそこにあるという考え』ということでしょうか。たとえば、ある女の人がヒーリングかヨガか何かのセミナーに出たとき、彼女はいったい何を求めているのでしょうか。単に健康を彼女は求めているのでしょうか。そして、私達が上のスピリチュアリティの中のどれかを好み、そのどれかを実践するときに私達は何を望み、何を求めているのでしょうか。

話を少しもどして普通の人を考えたとき、(独断と偏見を交えて話をしますが)普通の人の興味はスポーツであったり、娯楽であったり、素敵な異性であったり、おいしい食事であったり、家族の団欒であったり、いい車や家であったり、しゃれたファッションであったり・・・。と、そんな風でしょうか。それに比べ前出のスピリチュアリティを好む人々は、○○○長時間座って何か呪文を唱えていたり、像や写真に向って手を合わせて熱心に何か祈ったり、変なポーズをして同じ場所にずっと立ち続けていたり、仏像が持っているような変な道具やあまり知らないような石をたくさん集めたり、観光地でもない外国の僻地に何度も行ったり、体調の悪い人がいれば『チョットやってあげる』といって、その人に手を当てたり・・・と、まあ、普通の人には理解できないような趣味や価値観を持っているわけで、コレがたとえば『日曜日は必ず協会に出かける敬虔なクリスチャン』であったり、『お寺の本山で厳しい修行を何年もしているお坊さん』というような普通の人にも理解しやすいものだといいのですが、宗教とも気功ともつかないような、普通の人の理解を超えた趣味は、やはり、普通の人の理解をなかなか得られないようです。コレは、普通の人が変だったり物事が良く分かっていないからでしょうか。それとも変な趣味を持っている人のほうがやはり変わり者なのでしょうか。もし私達が変わり者なら、何時から変わり者になったのでしょうか。私の知っている人には、昔は普通の人だったのに何時からか変わり者になってしまって、ゴルフはやめるし、車は買いかえずにずっと乗ってるし、高い服も買わなくなり、肉も酒も止めタバコも止めたり、他の普通の人に『人生何のために生きてるのですか?』と質問されたりする始末です。人生何のために生きているのでしょう?



聖書の中のイエスの言葉に『犬に聖なるものを与えてはならない。豚に真珠を投げてはいけない。そんなことをすればかえって彼らは怒って自分に向ってくるだろう』という(ひどい)ものがあります。また道教の太祖、老子は、『よくできた人間は、道の教えを聞けば感心し敬ぶが、つまらない人間は、それを笑ってバカにする。逆に、つまらない人間に笑われないようでは大いなる道と呼ぶには値しない。』といっています。それらは、ある種の達観であり、あきらめであり、この世界に対しての一つのコメントであります。

インドには、『往く道』と『還る道』という考えがあり、それは人生を半分に分け、前半を往く道、後半を『還る道』とします。それは、『人間は、向うの世界から来て、人間として人生を経験し、そこで何かを学び、そしてまた向うの世界に還っていく。』という考えです。人生は大きな矛盾だと思います。一つの人生の中で、人間であることを要求されると同時に、人間であることを止めることも要求されます。日本の子供の七・五・三の儀式はもともと、『向うの世界からやってきてまだ人間になりきっていない子供をきちんとこの世界に引き入れる』というものらしいです。人間に生まれれば、子供は育ち、自然に色々な感情や欲求、煩悩を持ちます。それはある種強制的です。そして、イエスやお釈迦様が『欲望を捨てなさい』といっても、それはなかなかきつい話です。例えばこれはどこか全く文化も風習も価値観も違う外国に行かされて、何十年か経って、その国に慣れて、その国が好きになった頃に「帰ってこい」と帰国の命令が出されるようなものです。前出の『往く道』と『還る道』の教えによれば、若い頃はこの世界の物質的な面に目がいき、欲望も強まるが、年をとるとともに、この世界のことより、あの世のことに対する興味や関心が強まって還っていく用意に入るとのことです。お年寄りがお寺にたむろするのもうなずけます。そう考えるとスピリチュアルなことに興味のある人は年をとった魂なのかもしれません。

ただ、そこに何かの価値観に優劣があったとしても『お前の趣味は低俗だ。』といえば、逆に『お前の方こそ低級だろう』ということになります。
他人の価値に対する寛容さは誰にとっても必要なものだと思いますし、道理の良く分かった大人は、子供のやることにいちいち目くじらをたてないものと信じたいです。物事の分からない連中を『犬』とか『豚』と呼んだイエスでさえ、愛の教えを説いたわけですから。

話をもとにもどして、スピリチュアリティですが、一口に言っても色々な考え、手法、価値があると思います。人はとかく『なにが一番か』とか「どれがいいか」とか考えたくなりますし、そう考えれば『真理は一つ』と思いたくなります。しかし、世界の姿を見ればそれは多様であり、進化の過程で最も効率の良いものだけが生き残ると言ったところで、この世界には多くの生物がいて、多くの文化や価値があります。世界にはゴキブリだけが生き残っているわけではありません。

スワミの言葉で『この世界を作った母なる神、マザーは、創造はするけれど自ら作った世界を認識してはいない。われわれの仕事のひとつは、この世界の有り方や仕組みを知り、彼女に認識させることだ。』というものがあります。この世界は広大であり、もしその蔭に目に見えない(エネルギーの)システムもあるなら、それは本当にはかり知れないものです。それについて現世的であれ、物理的であれ、また、スピリチュアルであれ、多くの探求者がいるのは自然なことと思います。真理は一つであっても、そこに繋がる道は多いとスワミも言います。(『私はそのうちの最良のものを教える』とスワミは言いますが。)世界は神秘に満ちています。私達は自分でも良く分からないうちに『スピリチュアル』な何かに魅かれます。それは自分の来た『もとの場所』への憧れや懐かしさであると同時に、神の作ったこの世界に対する愛なのかもしれません。